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アメリカンコッカーの『リンダ』です★ 
ちょいワガママだけど♪私の目線は神社に呼び寄せられます。古く美しい狛犬さんに出会うと久しぶりに旧友に出会えたようで心が震えます。皆さんも、私の目線でいろんなところを見てみましょう♪

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豪姫  ~宇喜多秀家の妻~

豪姫(天正2年(1574年)- 寛永11年5月23日(1634年6月18日))
彼女は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてを生きた女性。
この時代一番のイケメンと言われる宇喜多秀家の正室。

image宇喜多秀家
          宇喜多秀家 これが時代を代表するイケメン、まぁ濃い顔ですね


前田利家の4女として生を受けた豪姫は、まだ数えで2歳の時に、父:利家羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との仲を深める戦略のため、子のなかった秀吉夫婦の養女として差し出されます。
それでも、豪姫は養育される秀吉や正室の寧に、一心に寵愛を受けてそだてられたそうです。
わずか数え2歳のかわいいさかりの娘を差し出されたことから、利家と秀吉の間柄には強い信頼関係が生まれました。




天正16年(1588年)よりも前に、秀吉の猶子でありかわいがられていた備前国(現・岡山県)の戦国大名である岡山城主・宇喜多秀家に秀吉の子という立場で正室として輿入れします。
「備前御方」と呼ばれ、文禄2年には「南御方」と改称しています。
秀規(母は奥女中の「お鮮」とされています)
秀高
秀継
◆理松院(山崎長卿・富田重家室) 
◆先勝院(伏見宮貞清親王・善福寺住職宣勝室)
などの子をなし、夫婦仲睦まじく 何不自由なく暮らしていたのです。


image関ケ原の戦
関ケ原の戦い


暗雲が立ち込めてくるのです・・・
慶長5年(1600年)秀家が関ヶ原の戦い石田三成ら西軍方に属していたため敗れ、戦後に宇喜多家は改易となってしまいます。
敗れた秀家は、薩摩へ船で逃れようとする中、大坂の備前屋敷で豪姫と数日だけ過ごすことができましたが、これが二人の今生の別れとなりました。



秀家は薩摩に潜伏し島津家に匿われることとなりますが、世の移り変わりは激しく
慶長7年(1602年)、島津忠恒は島津藩の本領安堵と引き換えに助命を条件に秀家一行を徳川家に差し出したのです。

この助命懇願によって、なんとか死罪は免れ、駿河国久能山に一時幽閉されます。
しかし、それもつかの間 慶長11年(1606年)4月、史上初の流人として息子2人と共に江戸から南方 287キロメートルの海上に浮かぶ火山島・八丈島へと流されてしまいます。
当時は「鳥もかよわぬ」と言われた絶海の孤島であるこの地で実に49年もの流刑生活を強いられます。苦難の連続だったっことでしょう。


窮状を聞き及んだ豪姫は、前田家では加賀3代藩主・前田利常(豪姫の弟)に願い出て江戸幕府の許可をもらい、1614年からは1年おきに白米70俵、金子35両、衣類・雑貨・医薬品などを八丈島に仕送りしていました。



宇喜多の家が没落した後、子供の頃育ててもらった義母の高台院に仕えています。
どうやら、この頃に洗礼を受けているようです。


こうして時代を代表するイケメンと言われた秀家も辛い時代になりますが、豪姫は実家である加賀藩の兄:前田利長の元に娘とともに慶長12年(1607年)頃に引き取られるのです。
その際、中村刑部と一色主膳が供として従いました。


この時、豪姫は化粧料として1500石を受け、金沢西町に住まうこととなりました。
これに伴い一族の宇喜多久閑も来沢して前田家から1500石を与えられます。

ロドリゲス・ジラン神父は豪姫が洗礼を受けたことをローマに報告しています。(『一六〇六の年報』)、その信仰の先達を勤めたのは内藤ジュリアであったそうです。
また、細川ガラシャに強く影響を受けたのだそうです。



豪姫は、寛永11年(1634年)5月、金沢城鶴の丸で時代に翻弄された波乱の生涯を閉じました。
享年61歳。
法名は、樹正院殿命室寿晃大禅定尼。
葬儀は宇喜多氏の菩提寺、家臣であった中村刑部・一色主膳ら多くの有縁の方によって浄土宗大蓮寺 で行われました。
樹正院。洗礼名は「マリア」。




一方、秀家は遠く離れた八丈島で豪姫の死去を聞いたのでしょう・・・。
ひっそりと長生きしていますが、秀家は、明暦元年(1655)11月20日、83歳で亡くなります。
時代はすでに4代将軍家綱の御世になっていました。
八丈島は江戸時代を通じて流刑地となり、多くの罪人が送り込まれた」歴史がありますが、秀家の一行がその第一号だったのです。



徳川の時代には、57万国を有した一大太守の秀家も墓は小さな卒塔婆と石塔がひっそりと佇み、風化も激しく表面の文字は読み取れないようなありさまだったそうです。流人の身では幕府をはばかりかろうじて小さな墓しか建てられなかったのですね。 その後、天保12年(1841)には、子孫の手によって墓は作り直され、表面に秀家の院号「尊光院殿秀月久福大居士」も刻み、現在の立派な五輪塔になりました。墓地を囲む石垣上には、秀家が精魂込めて築いた岡山城天守閣の礎石の一部が運ばれて設置されたのだそうです。




image豪姫菩提寺
大蓮寺


image豪姫墓所
豪姫の墓所、五輪塔



image八丈島の像
八丈島にある秀家と豪姫の像

いま、やっと2人は並んで静かにいられるようになったのですね。
青い空と、青い海、南国の風に吹かれて・・・・ 





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